シネマとライブと雑多な日々

映画やライブを見て感じたこと、考えたことを気ままに綴ります。

戦争について考えるとき、忘れられない2本のドイツ映画『ヒトラー〜最期の12日間〜』と『白バラの祈り〜ゾフィー・ショル、最期の日々』

人間的な面を持っていたからこそ余計に恐ろしい…。
ヒトラー〜最期の12日間〜』

1945年4月、ベルリンのドイツ首相官邸

じわじわと迫りくるソ連軍の攻撃によって、ベルリンは収拾のつかない修羅場に陥って行く。ヒトラーは、首相官邸の地下要塞に側近と愛人のエヴァ、秘書らと引きこもり、前線の部隊に檄を飛ばすが、状況はますます悪くなるばかり…。

すでにベルリンを逃げ出す兵士がいたり、市街戦では愛国心に燃える子どもが満足に武器のない中で戦い、病院には負傷兵が次々と運び込まれ、医師が血まみれになって負傷兵の手足を切り落としている。

この映画は、ヒトラーの最期の12日間を克明に描き出すと同時に、彼が引きこもった地下の上では、どのような修羅場が繰り広げられていたのかを詳細に描き出して見せている。

ヒトラーが指示したユダヤ人への組織的殺害(ホロコースト)。これによって、600万人ものユダヤ人が殺害されたという。

子どもの頃、その名も『ホロコースト』というタイトルのテレビドラマがあった。初めて観たとき、すごい衝撃を受けたことを覚えている。若き日のメリル・ストリープが出演していたことぐらいしか記憶にないが、ホロコーストという言葉と、ヒトラーのことは、深く記憶に残った。

その後も、幾多のドラマ、映画でヒトラーの悪魔的所業を垣間みたが、なぜ、それほどの大量殺人が国家的に行えたのか、については深く考えたことがなかった。なぜなら、それは単にヒトラーという個人の問題だと思っていたからだ。ヒトラーという類いまれなるカリスマ性をもった、およそ人間とはかけ離れた悪魔的人間によって行われた犯罪であるから、自分の身近に起こりうる次元の話とは到底考えられなかったからだ。

しかし、この映画を見て、悪魔的人間が必ずしも悪魔的日常を送っているわけではない、ということを今更ながら思った。

この映画について、ヒトラーの人間的側面を描きすぎている、国家的犯罪を描かずに、ヒトラーおよび彼の親衛隊たちを美化して描いているという批判もあるようだ。でも、私はそうは思わなかった。

あれほどの殺人を行った悪魔的人間が、愛人や秘書、側近の前では、普通の人とさほど変わらないということ、いやそれ以上に、ちょっとした気配りや優しい言葉をかけてくれる、見方を変えれば愛すべき人間だったという、その恐ろしさに愕然としたのだ。

心の中の悪意を巧妙に隠し、柔らかい物腰で近づいてくる人に、私自身はころっとだまされてしまいそうである。

例えば、身近にいる人間がとても愛すべき人間であるとしよう。でも、本当はその裏に、恐るべき思想を持ち、悪魔のような所業を行っていたとしたら…、それを自分は見抜き、告発することができるのだろうか?

ヒトラーの人間的側面を見せつけられたことで、遠い世界のことだったあの時代が、一挙に自分の生きる今の世界と地続きでつながっているのだと、感じられたのだ。

それは、この映画がヒトラーの秘書を務めていたユンゲという女性の内省的手記に触発されて作られたことに一因していると思う。1942年から45年まで、ヒトラーの秘書として働いていたトラウデル・ユンゲは、ヒトラーのすぐそばで、第三帝国が崩壊していく一部始終を目撃した。2002年に手記「私はヒトラーの秘書だった」を発表しているのだが、戦後すぐに書かれたこの手記が日の目を見るのに、実に50年もの時が必要だったことになる。

手記と一緒にユンゲのインタビュー映画『死角にてーヒトラーの秘書』(アンドレ・ヘラー&オトマー・シュミーダー監督)が公開されていて、多分、この映像を引用しているのだと思うのだが、『ヒトラー〜最期の12日間〜』の冒頭と最後に、ユンゲ自身の独白が挿入されている。

その中で彼女は、「ヒトラーの秘書だった当時、ユダヤ人の大量虐殺は知らなかったし、自分はまだ若かった。でも、今は若かったことが知らなかったことの言い訳にはならないと思っている。当時、私と同じくらいの年で、ゾフィー・ショルという女性がヒトラーに異を唱え、処刑されているということを後に知った。目をきちんと見開いていれば、わかったはずなのだ」というような告白をしている。この言葉は、映画が終わった後、いつまでも心に残る。

目をきちんと見開いていないと、自分の知らないうちに悪事に加担してしまうこともあるかもしれない。

 

ナチス批判のビラを配り逮捕された女性の最期の5日間『白バラの祈りゾフィー・ショル、最期の日々』

2005年のベルリン国際映画祭で、銀熊賞(最優秀監督賞&最優秀女優賞)を受賞し、2006年のアカデミー賞でも外国語映画賞にノミネートされた映画。

この映画は、2006年の公開初日にシャンテシネで観た。そして、運良く監督のマルク・ローテムントさんと、白バラのメンバーとして当時ビラを配っていたという白バラ財団名誉理事長のフランツ・ミュラーさんの舞台挨拶を見ることができた。

この映画は、ヒトラー時代の末期、ナチスを批判するビラを撒いて逮捕された21歳のゾフィー・ショルという女性の最期の日々を描いている。驚くべきことに、彼女は逮捕されてわずか5日で、ギロチンによる処刑で殺されている。ただビラを配っただけで…である。

白バラやゾフィーについての映画は、これまでドイツ国内でも何回も映画化やテレビ化されてきたということだが、舞台挨拶での監督の話によると、3年前(2003年)に彼女の取り調べに関する未公開文書が存在することを知り、それを発見することで、彼女の最期の5日間を克明に再現する映画が出来たということだった。

監督はまだ若く、エネルギッシュにこの映画について語っていたのがとても印象に残った。監督はとっても情熱的な人だったが、映画はとても冷静な視点でゾフィーの最期の日々を追う。

ミュンヘン大学でビラを配る息詰まるシーンから、処刑のシーンまで、ゾフィーが何を考え、どのように行動し、処刑されたのか。

ゾフィーを演じたユリア・イェンチがすばらしい。逮捕された当初は、ビラを配ったことを否定し、罪を逃れようとする。うまくやれば、処刑されずに済んだかもしれないのに、なぜ彼女は途中で自分のしたことを認め、取調官や裁判官に自分たちの主張を堂々と語ることができたのか。

彼女が、自分が見た夢を語るシーンがある。

深い穴の中に落ちそうになる自分の赤ちゃんを助けるために、自分の身を犠牲にするという内容だった。

そのシーンが今も忘れられない。

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